
今日は長谷寺まで行けなかったね。1.2万歩で足が棒だもんね。

昔ならもう少し歩けた気がするんだよ。なんか、ちょっと怖くなってさ。

怖く?ただ疲れただけじゃなくて?

お金は貯められても、体力って貯められないなって。FIREする頃には…って考えちゃって。

あ…お金が貯まったころには、もう歩けないかも、ってこと?
この記事でわかること
- 鎌倉で1.2万歩・足が棒になり、長谷寺と鶴岡八幡宮を諦めた話
- 体力は趣味の一ジャンルでなく、読書や映画ですら成立させる「あらゆる楽しみの入場券」だということ
- 怖いのは体力の低下より「回復力の低下」だということ
- お金は積み立てられても、体力は積み立てられないという非対称
- 「半分で良かった」と思えるようになったのも、たぶん経験だという気づき
鎌倉で、長谷寺を諦めて帰ってきた
先日、鎌倉に日帰りで行ってきたんです。
明月院と東慶寺を回って、鎌倉で昼を食べて。本当は長谷寺にも行きたかったし、鶴岡八幡宮でお参りもしたかったんですよ。でも、その昼の時点でもう足が棒で。結局、小町通をぶらっと見て回っただけで帰ってきました。歩いたのは、ぜんぶで1.2万歩くらい。
帰りの電車で、ぼんやり考えていたんです。若い頃なら、これくらい歩いてもまだ元気だったよな、と。長谷寺もたぶん普通に行けていた。運動不足のせいなのか、加齢のせいなのか、正直どっちもあると思うんですけど——確実に、加齢は影響しているなって。
そしてその流れで、もうひとつ、ちょっと怖いことを考えてしまったんです。このままお金を貯めてFIRE(経済的に自立して、早めに仕事を離れること)しても、その頃には体力が落ちていて、やりたいことがやれないんじゃないか。やれたとしても、十分に楽しめないんじゃないか、って。
体力って、「やりたいこと」の前提じゃなくて”入口”なんですよね
最初は、旅行とかサイクリングとか、体を動かす系の趣味のことを考えていたんです。そういうのは、体力が落ちたらできなくなるよな、と。
でも、よく考えたら、それだけじゃないんですよね。たとえば読書とか、映画を見に行くとか。一見、体力なんて関係なさそうじゃないですか。でも、映画館まで「出かける」のにも体力はいる。本を買いに行くのも、読むために机に向かうのも。体力がなくなると、その”出かける”ハードルそのものが、どんどん大きくなっていく。
つまり体力って、趣味のひとつのジャンルじゃなくて、ほとんど全部の楽しみの「入口」なんですよね。「年を取ったら、家で静かに本でも読んで過ごせばいい」なんて言うじゃないですか。でも、その静かな老後ですら、実は体力という入場券がいるんです。
怖いのは「体力が落ちる」ことより「戻らなくなる」こと
もうひとつ、最近気づいたことがあって。
若い頃って、少しくらい運動不足でも、ちょっと運動すればすぐ体力が戻る感じがあったんですよ。サボってたな、と思っても、何回か動けば元に戻る。でも最近は、その「戻る感じ」があんまりないんです。
これ、地味に怖いなと思っていて。減ること自体より、戻らなくなることのほうが怖い。お金で言えば、残高が減るより、もう積み増せないことのほうが絶望的じゃないですか。体力も、なんとなくそういうフェーズに入りつつある気がするんですよね。
(働き方の面でも、同じ”衰え”を感じはじめた話を書きました→「65歳まで働く」時代に、わたしの体が先に音を上げた話)
お金は積み立てられるのに、体力は積み立てられない
FIREって、結局のところ「お金を積み立てて、自由な時間を未来に用意する」戦略なんですよね。コツコツ貯めて、増やして、いつか働かなくてよくなる日のために。
でも、お金は積み立てれば増えるけど、体力は積み立てられないんですよ。むしろ、放っておけば減っていく。
増えていく資産と、減っていく体力。これ、どこかで線が交差するんですよね。資産が「もう十分」のラインに届く頃には、体力が「もうしんどい」のラインを割っているかもしれない。その交差点より後にFIREしても、できることはもう限られている。
「若いうちは金がない、年を取ると体力がない」ってよく言うじゃないですか。手垢のついた言葉だなと思っていたけど、今日、鎌倉で、それを言葉じゃなくて身体で食らった感じがしたんです。
「目いっぱい」を、いつの間にかノルマにしていた
ここでちょっと、別の話をさせてください。食べ放題の話なんですけど。
食べ放題に行くと、つい「これだけお金を払ったんだから、苦しくなるくらい食べないと損だ」って思っちゃうんですよね。単価の高いものを、そんなに食べたくもないのに無理して食べたり。でも最近思うんです。それより、好きなものを腹九分くらいまで食べるほうが、よっぽど幸せなんじゃないか、って。
で、今日の鎌倉も、たぶん同じことをやっていたんですよ。
仕事をしていると、休みって貴重じゃないですか。せっかく貴重な休みを使って来た旅行なんだから、目いっぱい楽しまないともったいない。だから足が棒でも、長谷寺まで行こうとする。でもそれって、「払ったコスト」を基準に、満足のノルマを決めてるだけなんですよね。本当は「自分がどこで一番幸せか」で決めればいいのに。腹九分でやめたいのに食べ続けるのと、足が棒なのに次の寺へ向かおうとするのは、たぶん同じことなんです。
結局、答えは出ていない
じゃあどうするのか。今すぐ会社を辞めて、体力があるうちに遊び倒すべきなのか。正直、答えは出ていません。
(”辞めても大丈夫なのに動けない”——この踏み出せなさは、別の記事で掘り下げました→「辞めても大丈夫」とわかっているのに、なぜ動けないのか)
ただ、今日ひとつだけよかったなと思うのは、長谷寺を諦めて、小町通でゆるく切り上げて帰ってきたことなんです。明月院も東慶寺も、静かできれいでした。これはこれで、良かったなって。
そして、これはあとから思ったことなんですけど——「これはこれで良かった」って思えるようになったのも、たぶん経験なんですよね。若い頃の自分なら、「せっかく来たのに長谷寺も行けなかった」って、きっと後悔していたと思うんです。それが今は、半分でも「いい一日だった」と思える。
つまり、加齢って体力を奪っていく一方だと思っていたけど、その代わりに「半分でいいや」と思える感覚を、ちょっとずつくれているのかもしれない。失うだけじゃなかったんだな、と。
もしかしたら、この「疲れたら終わりにしていい」って思える感覚こそ、私がFIREで本当に手に入れたいものなのかもしれません。たくさん遊べることじゃなくて、一回一回から「元を取らなきゃ」っていう焦りが外れること。
体力が落ちていくのは、止められない。それは今日、はっきりわかりました。でも、その下り坂をどう下りるかは、まだ選べる気がするんです。目いっぱい詰め込んで息を切らすのか、腹九分でゆっくり下りるのか。そしてどうやら私は、少しずつ後者を選べる人間になってきているらしい。
——まだ、答えは出ていないんですけどね。
この記事のまとめ
- お金は積み立てられるが、体力は積み立てられない。増える資産と減る体力は、どこかで交差する
- 体力はあらゆる楽しみの「入場券」。静かな老後ですら、実は体力がいる
- 怖いのは体力の低下より「回復力の低下」。もう積み増せない、という方が効く
- 食べ放題の「元を取らなきゃ」と同じ呪いで、貴重な休みを目いっぱい使おうとしていた
- 半分で切り上げて「これはこれで良かった」と思えるようになったのも経験。下り坂をどう下りるかは、まだ選べるという現在地

