
最近、ちょっと変わったよね。スーパーで迷う時間が減った気がする

気づいてた?実はちょっと意識して変えてみたんだよね

意識して?お金の使い方を?

うん。でも大きな話じゃなくて。気持ちに正直になる練習、みたいな感じかな

練習……なんで練習が必要なの?

それがさ、わかってるのにできないんだよね。その話を今日は書いてみる
この記事でわかること
- 資産があっても「使う」は自然にできるようにならない理由
- 「使えない」の正体は、節約習慣・気持ちの後回し・漠然とした恐怖の複合だった
- 仮説を立てて小さく実験してみたら、見えてきたこと
- まだ答えは出ていない。でも輪郭が少し見えてきた
「気づいた」のに、使えなかった
以前の記事で、親の介護認定をきっかけに「元気なうちに使わなければ」と気づいたことを書いたんです(→貯めることしか考えてこなかった40代後半が、親の介護で気づいたこと)。
あのとき、自分の中で何かが変わった感覚がありました。老後のためだけに貯めてきた自分が、初めて「使う時間」を意識した瞬間だったと思うんですよね。
でも、気づいた翌日から使えるようになったわけじゃなかったんです。
スーパーに行けば、手は安いほうに伸びる。何かほしいと思っても「本当に必要か」と自問してしまう。頭では「もういいじゃないか」とわかっているのに、体がついてこない感じで。
「わかっているのに、できない」——この状態を今日は正直に書いてみようと思って。
数字の上では、「使っていい」はずだった
以前書いたように、わたしはすでにコーストFIREの状態にあるんです(→「もう貯蓄しなくていい」という解放感——コーストFIREの本質)。今の資産を運用し続けるだけで、老後の生活は確保できる水準で。つまり、今稼いでいる給与は、老後のためでなく今の生活のために使っていいんですよね。
老後資金は確保済み。頭ではそう理解しているんです。
それでも、手が止まる。
なぜ止まるのか
「使いたいのに使えない」という状態を、もう少し丁寧に見てみると、ブレーキのかかり方には一定のパターンがあることに気づいたんです。
「これ、本当に必要?」「もったいないかな」「もう少し安いのでもいいか」——こういう問いが、ほぼ反射的に出てくるんですよね。
意志が弱いとか、ケチとか、そういうことじゃないと思っています。20年かけて染み込んだ習慣が、今も無意識に動いているだけなんです。
問題は、この習慣がいつ、どうやって「解除」されるのかを、わたしが知らないことで。
「使えない」の正体を、解剖する
正体がわからないままでは前に進めない気がして、少し立ち止まって考えてみたんです。「なぜ使えないのか」について、3つの仮説を立ててみました。
仮説① 節約習慣が強すぎる
貯める習慣は、意識して作ってきたんですよね。毎月の積立額を決めて、支出を管理して、「使わないこと」を積み重ねてきた20年でした。
でもよく考えると、「使う習慣」をゼロから作ったことはないんです。使わないことを習慣にしてきた。だから使えないのは当然かもしれない。
ただ、これだけなら意識すれば変えられるはずで。「今日は使ってみよう」と決めれば動けるはずなんですよね。でも実際にはそうならない。だから習慣だけが原因じゃない気がしたんです。
仮説② 気持ちをずっと後回しにしてきた
「美味しいものが食べたい」「ゆっくりリラックスしたい」「面白いマンガを読みたい」——こういう気持ちは、ちゃんとあったんですよ。
でも貯める期間が長くなるうちに、「でも今じゃなくていいか」「がまんしよう」という判断が先に出るようになっていたんです。気持ちを確認する前に、ブレーキが動く。
老後が確保されたあとも、この癖は残っていました。「使っていい」という状況になっても、気持ちに従う練習をしてこなかったから、やり方がわからないんですよね。
これが一番しっくりきた仮説でした。
仮説③ 漠然とした恐怖がある
資産が減ることへの、根拠のない不安があるんです。「足りなくなったら」という恐れが、頭の片隅に居座っている感じで。
計算上は問題ない。わかっているんです。でも感情はそう動かない。
この恐怖は、仮説②と絡み合っていると思っています。気持ちに従う経験が少ないから、使うことへの手応えがない。手応えがないと、減ることへの恐怖だけが残るんですよね。
仮説②を、小さく試してみた
3つの仮説を並べてみて、一番手が届きそうなのは②だと思ったんです。
①の習慣は長い時間をかけて変えるしかない。③の恐怖は気持ちに従う経験が積み重なれば薄れるかもしれない。でも②は、小さな範囲で「気持ちに正直になる」ことを試せる。
解決策として試したわけじゃないんですよね。自分がどう反応するかを、観察してみたかったんです。
イワシの缶詰を、200円のものにした。
いつも買うのは100円台のもので。スーパーの棚で200円のイワシ缶を見たとき、一瞬手が止まったんですよ。「倍か」と思って。でも「美味しいものが食べたい」という気持ちに、素直に従ってみたんです。
買って食べてみたら、美味しかった。それからリピートしています。
干し柿を、食べたいと思ったときに買うようにした。
干し柿が好きなんですよ。でも例年、シーズンに1回しか買わなかったんです。「高いから」という理由ではなく、なんとなく「そんなに買わなくていいか」という感覚で。
今年は、食べたいと思ったタイミングで買ってみました。「食べたい」という気持ちを、後回しにしなかったんです。
疲れたと思ったら、スーパー銭湯に行くようにした。
以前は「わざわざ行かなくても」と思っていたんですよね。でも「リラックスしたい」という気持ちが出たとき、それに従ってみました。行ってみたら、想像以上に気持ちよくて。疲れが取れた、というより、「ちゃんと自分を休ませた」という感覚がありましたね。
気に入ったマンガは、買うようにした。
もともと無料で読める範囲でマンガを楽しんでいたんです。「面白い、続きが読みたい」と思っても、「まあ無料で読めるぶんでいいか」と止まっていたんですよね。
それを、気持ちに従って買ってみました。読み終えたあとの満足感が、無料で途中まで読んでいたときとは違ったんです。「面白いものを最後まで楽しむ」という、シンプルな幸せだと思っています。
やってみたら、何かが動いた気がした
正直に書くと、最初はそれぞれ小さなためらいがありました。
干し柿を2回目に買うとき、「もう十分じゃないか」という感覚があって。スーパー銭湯に向かいながら、「今日じゃなくてもよかったかな」と思ったりもしました。
それでもやってみたら、不安は増えなかったんですよ。むしろ、何かが軽くなった感じがして。
気づいたのは、小さな幸せが積み重なるということなんです。美味しいものを食べた。食べたいものを我慢しなかった。疲れたときに休んだ。面白いものを最後まで楽しんだ。それぞれはほんとうに小さいことだけど、「気持ちを後回しにしなかった」という事実が積み重なっていく感じがあって。
お金への不安は「量」の問題だけじゃないのかもしれないですね。「気持ちに従う」という経験が薄いまま、使うことへの手応えがなかったのかもしれないと思っています。
ただ、「使えるようになった」とは言えないんです。仮説②について、小さなヒントが見えただけで。①の習慣も、③の恐怖も、まだ解消されていないんですよね。
わたしの現在地
解剖はまだ途中なんです。
でも「使えない」の輪郭が、少し見えてきた気がしています。気持ちに正直になること、その積み重ねが、今のわたしにできることかもしれないと思って。
大きな使い方はまだ決まっていないんですよ。旅行でも、大きな買い物でも、何か明確な「これに使う」という軸は、まだないんです。
(その後、夫婦で「使う口座」という仕組みを作ってみた話は夫婦で決めた「使う口座」——節約しすぎた末の発明に書いています)
でも、小さなことから始めてみました。ゆるく、でも確実に——それは、使うことにも当てはまるのかもしれないと、少しだけ思っています。
この記事のまとめ
- 「使っていい」状況になっても、気持ちを後回しにする癖はすぐには抜けなかった
- 「使えない」の正体は、節約習慣・気持ちの後回し・漠然とした恐怖の複合だと気づいた
- 小さな実験で見えたのは、気持ちに正直になると小さな幸せが積み重なるということ
- 解剖はまだ途中。でも輪郭は少し見えてきた

