
この前の歓迎会から帰ってきたとき、なんか機嫌よかったよね。

あー…実はあの日、「ここで働くのもいいな」って思っちゃってさ。

え、辞める話はどこ行ったの?

それがね、「働くのもいいな」って気持ちの方が、一晩寝たら消えてたんだよ。自分でも笑っちゃって。

あ…その揺れ、会社のことじゃないのかも?
この記事でわかること
- 辞める条件は揃っているのに、歓迎会やきれいなオフィスで気持ちが揺れる話
- その揺れが、歓迎会だけじゃなく「ハレの日」に定期的にやってくること
- 職場の「所属」や仲間が、努力ゼロで自動供給されていたと気づいたこと
- 揺れの正体は会社じゃなく、「ハレの日だけ切り取られた自分」かもしれないという見立て
- 一晩で消える感情の軽さが、むしろ怖い——という今の現在地
辞める条件は揃っているのに、揺れる
正直に言うと、辞める条件はもう揃っているんです。
資産も、取り崩しのペースも、辞めていい数字はとっくに出ている。何度計算しても、答えは変わらないんですよ。頭では「もう大丈夫」ってわかってる。
なのに、定期的に揺れるんです。何かが変わったわけでもないのに。
今日は、その揺れの話をします。ちょっと情けない話なんですけどね。
(「辞めても大丈夫」なのに動けない本音は、こっちに書きました→「辞めても大丈夫」とわかっているのに、なぜ動けないのか)
きれいなオフィスで、「ここで働くのもいいな」と思った
きっかけのひとつは、歓迎会でした。
最近、新しい人が現場に来たので歓迎会を行ったんですよ。ジンギスカンを食べながら、あれこれ話しているうちに、ふっと「仲間っていいな」って思ったんですよ。深い意味なんてなくて、ただその場の空気が、あたたかかった。
たまに帰社したときに会社のオフィスも見るんですが、これがきれいでね。広くて、明るくて、いかにも「ちゃんとした会社」って感じで。その景色を眺めながら、わたし、こう思ったんです。「ここで働くのも、いいなあ」って。
書いていて自分でもおかしいんですけど、その瞬間、辞める話がどこかに行っちゃってたんですよね。
でも、冷静に考えたら、何ひとつ変わってないんですよ。辞めていい条件は、1ミリも動いていない。動いたのは、わたしの気持ちだけ。
それなのに、「ここで働くのもいいな」で、あんなにあっさり傾く。おかしな話だなって、あとから思ったんです。
その揺れは、一度きりじゃなかった
もっと引っかかったのは、この揺れが歓迎会だけじゃなかったことなんですよ。
たとえば、年度はじめのキックオフ。みんなで集まって、今年はこうやっていこう、みたいな話を聞くと、なんだか気持ちが上がる。ああ、いいなって。
普段は客先常駐なのですが、健康診断で久しぶりに会社まで行ったときなんかも、そうなんです。会社に着いて、人がいて、自分の居場所がそこにある感じがして。それだけで、ちょっといい気分になる。
気づいたんですよ。わたしが揺れるのは、いつも「ハレの日」なんです。歓迎会、キックオフ、たまの出社。日常じゃなくて、非日常のとき。
そして、そういうときに感じているのは、たぶん「所属」なんですよね。ここに自分の居場所がある、仲間がいる、っていう感覚。
これ、よく考えると、わたしは何の努力もしてないんですよ。会社に所属しているだけで、この「居場所がある感じ」が、勝手に供給されてくる。自分で作らなくても、向こうから来てくれる。ずっと、努力ゼロで自動供給されていたんです。
でも、一晩寝たら消えた
じゃあ、その揺れがずっと続くのかというと、続かないんですよ。
歓迎会の翌朝、目が覚めたら、もう消えてるんです。「ここで働くのもいいな」の気分が、きれいさっぱり。
満員電車に揺られて、退屈な定例会議に出て、理不尽な締切に追われる。いつもの日常に戻ると、感情もちゃんと元の場所に戻ってる。「あれ、昨日のあれ、なんだったんだろう」って。
一晩ですよ。一晩寝たら消える程度のものだったんです。
これ、放っておくと危ないなとも思っていて。この揺れが来るたびに「やっぱりもう少し続けようかな」ってなってたら、それこそ「あと1年、あと1年」で、辞め時なんて永遠に来ないんですよね。ハレの日は、これからも定期的にやってくるわけですから。
揺れていたのは、会社じゃなかったのかもしれない
で、この揺れの正体を、ちょっと剥がしてみたんです。
わたしは、あの職場の何に惹かれたんだろう、って。仲間か。たしかに、いい人たちなんですよ。でも、じゃあ普段の職場が仲間との楽しい時間で満ちているかというと、そんなことはないんですよ。
条件はあいかわらず動いていない。じゃあ、わたしは何に揺れていたのか。
仲間、と言いかけて、ちょっと違うなと思ったんです。正確には、仲間そのものというより、「その輪に必要とされている自分」なんですよね。居場所があるというより、その居場所に受け入れられている自分の姿に、ほっとしていた。
そこまで来て、ひとつ思い当たったんですよね。わたしが「いいな」と思っていたのは、会社そのものじゃなくて、ハレの日にだけ立ち上がる、「いいバージョンの自分」だったんじゃないか、って。
歓迎会で笑っている自分。キックオフで前を向いている自分。オフィスで「ちゃんと働いている」ように見える自分。そのきらきらした自分を見て、「いいなあ」って思っているだけ、だったんです。
普段のわたしは、そこにいないんですよ。満員電車で疲れた顔をしている自分も、定例で退屈している自分も、ハレの場には出てこない。都合よく消えてる。だから、いい部分だけを見て、揺れていた。
そう考えると、揺れの相手は会社じゃなかった。ハレの日だけ都合よく切り取った、自分のいい部分に、勝手に揺さぶられていたんです。
一晩で消える感情の「軽さ」が、こわい
ここまで書いて、いちばん引っかかっているのは、実はその「軽さ」なんですよ。
だって、一晩で消えるんです。翌朝には跡形もない。それくらい軽い感情に、「会社を辞めるかどうか」っていう、人生でかなり大きな決断が、ぐらっと揺さぶられる。
普通、逆であってほしいじゃないですか。大きな決断ほど、どっしりした理由で動いてほしい。なのに実際は、歓迎会の空気とか、きれいなオフィスの眺めとか、そんな一晩で蒸発するもので揺れている。
「大丈夫、みんなそういうもんだよ」って言ってしまえば、たぶん楽なんです。でも、それは違う気がしていて。この軽さを「あるある」で片づけてしまうと、次のハレの日にまた同じように揺れて、また消えて、を延々くり返すだけなんですよね。
正直、この揺れをどう扱えばいいのかは、まだわかってません。消し方も知らない。
ただ、ひとつだけ手にしたものがあるとすれば——揺れているのは会社じゃなくて、「ハレの日だけ切り取られた自分」のほうかもしれない、という見立てです。答えは出てないけど、揺れの相手の見当だけはついた。今のわたしは、そこに立っています。
もし同じように、「辞めていいはずなのに、なぜか揺れる」という人がいたら、ひとつだけ。その揺れが来た日って、たぶん「ハレの日」じゃないですか。だとしたら、揺れているのは会社なのか、それとも「ハレの日の自分」なのか——そこだけ、そっと疑ってみてもいいのかもしれません。
この「揺れ」を、じゃあ自分はどう決めていくのか。その話は、また別のところで書こうと思います。
この記事のまとめ
- 辞める条件は揃っているのに、歓迎会やきれいなオフィスで定期的に気持ちが揺れる
- 揺れが来るのはいつも「ハレの日」。そこで感じる「所属」は努力ゼロで自動供給されていた
- でも、その揺れは一晩寝たら消える程度のものだった
- 揺れの相手は会社じゃなく、ハレの日にだけ立つ「いいバージョンの自分」かもしれない
- 一晩で消える感情の軽さが、むしろこわい——見立てはついたが答えは出ていない、という現在地

